〈世界文学〉としてのエトガル・ケレット氏の作品 また我々は如何にして〈世界文学〉と向き合うべきなのか【前篇】

【BOOK DATA】
写真・左:『突然ノックの音が』(新潮社刊)エトガル・ケレット/著、母袋夏生/訳、竹田匡志/装画、新潮社装幀部/装幀 2015年2月25日第1刷発行 ¥1,900(税別) 写真・右:『あの素晴らしき七年』(新潮社刊)エトガル・ケレット/著、秋元考文/訳、Jason Polan/装画、gray 318/オリジナル ジャケット デザイン、新潮社装幀部/装幀 2016年4月25日第1刷発行 ¥1,700(税別)


前書きがわりの(いまだに読み返しても超卑屈な)近況報告から間が空いてしまいました。今回はエトガル・ケレット氏の著作である『突然ノックの音が』(新潮社刊)と『あの素晴らしき七年』(新潮社刊)について、そして(書くかどうか正直迷ったのですが)『あの素晴らしき七年』に関するいくつかの書評を読んで自分が感じたモヤモヤとした違和感についてです。
 

まず最初に「エトガル・ケレットって誰?」という方も多いと思いますので、ご参考までに氏のプロフィールを。以下、新潮社サイト内の作品紹介ページに掲載されているプロフィールに、自分がリンクなどを付け加えたものになります。

 

エトガル・ケレット Keret, Etgar

1967年イスラエル・テルアビブ生まれ。両親はともにホロコーストの体験者。義務兵役中に小説を書き始め、掌篇小説集『パイプライン』(1992)でデビュー(注・秋元孝文訳『早稲田文学』2014年冬号掲載)、『キッシンジャーが恋しくて』(1994)で注目され、アメリカでも人気を集める。『突然ノックの音が』(2010)はフランク・オコナー国際短篇賞の最終候補となり、作品はこれまでに37か国以上で翻訳されている。絵本(注・『パパがサーカスと行っちゃった』評論社刊)やグラフィック・ノベルの原作を執筆するほか、映像作家としても活躍。2007年には『ジェリーフィッシュ』(注・予告編動画)で妻のシーラ・ゲフェンとともにカンヌ映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞している。テルアビブ在住。

 

と、現時点で和訳されている氏の作品は『突然ノックの音が』、『あの素晴らしき七年』、『パパがサーカスと行っちゃった』の3冊と、岸本佐知子編・訳の『コドモノセカイ』(河出書房新社刊)収録の「ブタを創る」「靴」、『早稲田文学』2014年冬号に「パイプ」と共に掲載された「イスラエルにある別の戦争」(秋元孝文訳)、同じく『早稲田文学』2015年夏号に掲載された「ハッピー・エンディングな話を聞かせてくれよ」(秋元孝文訳 ※イスラエルのアラブ人作家であるサイイド・カシューア氏との往復書簡)と、まだまだ少ない状態。

 

しかし『あの素晴らしき七年』の訳者あとがきにある「イスラエルの新しい世代を代表する作家としてとくに若者の間で人気が高く、『もっとも作品が万引きされる作家』『囚人の間でもっとも人気のある作家』だという形容からも評価の雰囲気は読み取れよう。」というテクストからも伝わってくるように、今後注目すべき作家のひとりとも言える存在なのです。というか、ヘブライ語というハードルがあるとはいえ、なんで最近までケレット氏の作品が日本で紹介されていなかったのが不思議なくらいです。

 

ちなみに自分が初めて読んだケレット氏の作品は38の掌篇が収録された『突然ノックの音が』。以下、出版元のサイトにある内容紹介となります。

 

人の言葉をしゃべる金魚。疲れ果てた神様の本音。ままならぬセックスと愛犬の失踪。嘘つき男が受けた報い。チーズ抜きのチーズバーガー。そして突然のテローー。軽やかなユーモアと鋭い人間観察、そこはかとない悲しみが同居する、個性あふれる掌篇集。映画監督としても活躍する著者による、フランク・オコナー賞最終候補作。

 

初めて読んだとき自分がちょっと驚いたのが、各作品の読み応えっぷり。短いものは見開きで終わり、長いものでも22ページという、まさに〈掌篇〉という表現がぴったりなボリュームなものの、まるで栄養素とカロリーがぎっしり詰まった非常食(もしくは登山や長時間マラソンをしているときに摂取する行動食)を食べているかのような読み応えがそれぞれにあるのです。

 

しかも具体的な道徳的教訓は示されていないものの、イソップ物語などの寓話のように読み手に訴えかける〈何か〉があり、その〈何か〉も読書中に着眼するポイントによって形を変えていく。読み返すごとに、読了後の印象が変わってくるようにも思え、まさにフィクションという様式が持つ力を最大限に活かした作品群だと感じました。

 

ケレット氏は、こんな読み応えのある作品をどのようにして書いているのか? その答えは『突然ノックの音が』の訳者あとがきに書かれているので、気になった方はぜひ『突然ノックの音が』を手にとってみてください。

 

「イスラエル文学なんて敷居が高そう」「海外文学なんて普段は読まないし、なんか難しそう」と読むのを躊躇されてしまう人もいるかもしれませんが、

 

映像作家でもあるケレットはインタビューで、「映像は制作側と視聴者側が九対一の関わり方になります。小説の場合、登場人物の声や姿や展開への関わり方は、通常、作者と読者は七対三、しかし、ぼくの場合は作者と読者が半々、五対五です」と語っている。自作を朗読して聴衆が反応することで作品が完成するともいう。真意は、彼の作品は双方向的で読者は自由にそれぞれの読み方ができる、一つに限定されないということだろう。

 

と、訳者あとがきにあるように、ケレット氏自身が「作品をどんな風に解釈してくれてもOK」と言ってくれているので変にきばらず、それこそ何かの寓話を読む感覚で手にとって良いかと。

 

ちなみに自分がこの掌篇集に強く惹かれたのは、どの作品に登場する人物たちも、自分が今いる場所にどこか違和感を覚えているように感じられたからです。

 

雲田はるこ先生の『昭和元禄 落語心中』にしかり、前書きでもちらりと書いた『文豪ストレイドッグス』にしかり、どうも自分は〈自分の居場所を探し求める人々〉を描いた作品に強く惹かれてしまう傾向があるのですが、この〈居場所探し〉というのは普遍的なテーマだと思うし、今後これをテーマとした〈世界文学〉が増えていくんじゃないかと秘かに思っています。

 

さて『突然ノックの音が』に強く惹かれた2015年の自分ですが、刊行記念として早稲田大学にて開催された「エトガル・ケレット×円城塔 公開講義『僕たちの書き方』」を聴講し、ますますケレット氏の作品が好きになる体験をするのでした。それがどんな体験だったのか、そしてケレット氏の日本語での最新作『あの素晴らしき七年』については後篇にて。